緊張する時間
月に2回ほど、緊張する時間がある。とても緊張するので、その時間のあいだは、他の一切のことが考えられない。ある意味、目の前の「今」に集中する刺激的な時間でもある。
それは、礼儀作法のお教室でのこと。所作の一挙一動をじっと見つめられて、手足の動きや姿勢を直される。言葉遣いから、帰りの挨拶まで気が抜けない。
以前は、そのお教室に通うのが負担だった時期もあったけれど、最近はようやく学ぼうと思う気持ちの余裕が出てきた。
考えてみたら、ある程度の年になり、会社でも中堅どころになれば、新人のころのように細々と指導を受けることもないし、自分の仕事のやり方や考え方も定まってくる。多少の経験も重ねて、自信もついてきたときが、ちょっと危険なとき。厳しい上司でもいなければ、いつのまにか自分のやり方が一番正しいような錯覚に陥る。そんなときは視野も狭く独りよがりになっていたと、後から反省することになる。
何でもわかったようなつもりになっていた、そんな自分に気づくのは、この教室に行って何も知らない自分に面と向き合わされるときだ。
大先輩方がやんわりと、ときにはチクチクと「あなた、それは違いますよ、解っていませんよ。」ということを教えてくださる。恥ずかしくて赤面したり、時にはカチンと感じることもあるけれど、いい意味での「口うるさい」人の存在は貴重だと思う。
言うほうも言われるほうも、決していい気持ちはしないであろうことを、相手の成長を即すために苦言を呈する。昔は、どこにでもいたような「小姑」さんたちを、最近はめっきり見かけなくなったように思うのは、私が、それなりの年齢になったせいかもしれない。
お教室の先生は、礼儀作法は相手を思いやる気持ちであると、何度も繰り返し教えてくださる。理屈は簡単だけれど、それが本当にわかるまでには、長い道のりが必要だ。ひとつひとつ自分の経験を通して学んでゆくことなのだろうと思う。
本当に思いやいのある人は、「思いやり」なんてことは考えずに自然に動いている。
躾がなっていない人の動作は見苦しいけれど、躾そのものが相手に目立ってしまうようであれば、それも見苦しいことだと作法の教えにある。私はこの教えは、なかなか深いなと思う。
本来の「思いやり」よりも「道具」が目立つのは美しくないのだろう。美しさは、目に見えることであれ、見えないことであれ、本質的なものをあらわす基準なのかもしれない。
さて、私は11月からひとつ上のクラスへ行くことになった。
「上の科には、諸先輩方がおいでになり、細かいことも厳しくなりますから、よくよく心得るように」と先生に告げられて、「えっ、先生よりお厳しいのですか。」と、思わず口に出かかった言葉をぐっと呑み込み、「はい。」と畏まって返事をした。
上の科は、どんな感じなのだろう。ちょっと怖くもあり、ちょっと楽しみでもある。一番下っ端という環境に身をおけることはありがたさが、最近になってわかってきた。自分を律する場として、緊張しながら、素直な気持ちで頑張ろう。
所作や言葉を整えることで、心が感じ取ってゆくものがあると思う。
5年後、10年後に、自然な美しいふるまいができるようになれば、見えてくるものも違ってくるだろう。
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