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2008年10月

緊張する時間

月に2回ほど、緊張する時間がある。とても緊張するので、その時間のあいだは、他の一切のことが考えられない。ある意味、目の前の「今」に集中する刺激的な時間でもある。

それは、礼儀作法のお教室でのこと。所作の一挙一動をじっと見つめられて、手足の動きや姿勢を直される。言葉遣いから、帰りの挨拶まで気が抜けない。

以前は、そのお教室に通うのが負担だった時期もあったけれど、最近はようやく学ぼうと思う気持ちの余裕が出てきた。

考えてみたら、ある程度の年になり、会社でも中堅どころになれば、新人のころのように細々と指導を受けることもないし、自分の仕事のやり方や考え方も定まってくる。多少の経験も重ねて、自信もついてきたときが、ちょっと危険なとき。厳しい上司でもいなければ、いつのまにか自分のやり方が一番正しいような錯覚に陥る。そんなときは視野も狭く独りよがりになっていたと、後から反省することになる。

何でもわかったようなつもりになっていた、そんな自分に気づくのは、この教室に行って何も知らない自分に面と向き合わされるときだ。

大先輩方がやんわりと、ときにはチクチクと「あなた、それは違いますよ、解っていませんよ。」ということを教えてくださる。恥ずかしくて赤面したり、時にはカチンと感じることもあるけれど、いい意味での「口うるさい」人の存在は貴重だと思う。

言うほうも言われるほうも、決していい気持ちはしないであろうことを、相手の成長を即すために苦言を呈する。昔は、どこにでもいたような「小姑」さんたちを、最近はめっきり見かけなくなったように思うのは、私が、それなりの年齢になったせいかもしれない。

お教室の先生は、礼儀作法は相手を思いやる気持ちであると、何度も繰り返し教えてくださる。理屈は簡単だけれど、それが本当にわかるまでには、長い道のりが必要だ。ひとつひとつ自分の経験を通して学んでゆくことなのだろうと思う。

本当に思いやいのある人は、「思いやり」なんてことは考えずに自然に動いている。

躾がなっていない人の動作は見苦しいけれど、躾そのものが相手に目立ってしまうようであれば、それも見苦しいことだと作法の教えにある。私はこの教えは、なかなか深いなと思う。

本来の「思いやり」よりも「道具」が目立つのは美しくないのだろう。美しさは、目に見えることであれ、見えないことであれ、本質的なものをあらわす基準なのかもしれない。

さて、私は11月からひとつ上のクラスへ行くことになった。

「上の科には、諸先輩方がおいでになり、細かいことも厳しくなりますから、よくよく心得るように」と先生に告げられて、「えっ、先生よりお厳しいのですか。」と、思わず口に出かかった言葉をぐっと呑み込み、「はい。」と畏まって返事をした。

上の科は、どんな感じなのだろう。ちょっと怖くもあり、ちょっと楽しみでもある。一番下っ端という環境に身をおけることはありがたさが、最近になってわかってきた。自分を律する場として、緊張しながら、素直な気持ちで頑張ろう。

所作や言葉を整えることで、心が感じ取ってゆくものがあると思う。

5年後、10年後に、自然な美しいふるまいができるようになれば、見えてくるものも違ってくるだろう。

Rie

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オアシス

週末、ちょっとお祝い事があり、食事に出かけた。

四ツ谷の駅からホテルへ向かう。その道の途中にある教会の売店には、いつもつい立ち寄りたくなる。天使をモチーフにしたかわいらしいシールや置物、普通の文房具屋さんでは見かけないようなカード類や小物などがある。

私はキリスト教の信者ではないけれど、教会の雰囲気は好きで礼拝堂に立ち寄り、しばらく静かなときを過ごすこともある。高い天井、人気の少ない空間で静かな気持ちになる。

数年前、クリスマスのミサに友人とこの教会に出かけた。気軽な気持ちで行ったら、すごい行列でびっくりした。教会の入り口で落ち合おう、と言っていた友人と会えるのかなと心配になる。来た順に待合室に誘導されて友人とは別々の部屋に入ってしまった。その後、待合室ごとに礼拝堂に案内されて前の席から順に座ってゆく。幸いに、私と友人はタイミングよく出会うことができ、一緒に座ることができた。本当にたくさんの人で、「立ち見」の人も多かった。楽しみにしていたキャンドルサービスは、固定の長椅子に座った人たちにだけ配られた。私たちは、ぎりぎりキャンドルをいただけて喜んだ。

そんなことを思い出しながら道を歩いて行く。教会のとなりの大学を通り過ぎるとまもなく、ホテルに到着。

その日は、庭園内にあるお店で鉄板焼きをいただく。私は、このホテルの雰囲気がとても好きなのだけど、それは、この庭に負うところが大きい。庭の緑が見渡せるガラス張りのフロアー。そこから外を眺めていると、都会の中のオアシスにいる感じがして、普段は忙しくあれこれと動いている頭も体もリラックスする。

鉄板の前に現れたシェフは若い女性だったので、めずらしいなと思った。かなり力の要るお仕事でしょうと話しかけると「そうなんです、並の男性より力があると思いますよ。」と言って、腕を巻くって見せてくれた。そのたくましい太さに、わぁーっと目を丸くした。「鉄板焼きの担当に決まったとき、祖父がとっても喜んでくれたんです。」と言う笑顔は、その腕には似合わず、チャーミングでかわいらしい。男性のシェフとは、一味違う楽しさを味わった。

食事の後、庭を散歩する。少し冷たい風が顔にあたり、霧雨が降ってきたのかと思ったら、少し離れたところにある滝の水を風が吹き飛ばしていた。

空は広く、遠くには高層ビルも見える。郊外の自然の中とは、またちょっと違う落ち着きを感じながら、ススキのそばを通り過ぎる。空は見事な夕焼けに染まり、都会のオアシスを彩った。

Rie

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奇跡

いつもは、素通りしてしまうような本に目がとまる。自分には、まったく興味のない分野の本。それなのに手に取りたくなる。おかしいなと思って、いったんその場を離れると、その本のことはあっさりと忘れる。それなのに、また、その本の前を通ると足が止まった。

その本はオーラを放っていたのだと思う。

開いたそのページに、しばらく考えていたことの、まさにこれだ!という私にとっての「答え」が書いてあって、すごいなと驚く。そして、読み進めるうちに、「私にとっての答え」を抜きにしても、この本は、大当たりだと思った。

それは、おもちゃ収集家の北原氏がおもちゃについて語っている本。

おもちゃを集めることで、同時に人との出会いをコレクションしていたことに思い至ったという。おもちゃに対する熱い思いと行動力、そして誠実さ。それがあったから、想像を超えるほどのモノたちが彼のところに集まってきた。

おもちゃにとって彼のところへ行くことがとても幸せなのだろう。だから、いろいろな偶然や奇跡のようなことが、彼には起きて当たり前なのだと思った。

偶然や奇跡が起きて当たり前。北原氏の場合、それは、おもちゃに関わる話なのだけれど、このことは、ある人たちに共通していると思う。ある人たちとは、その対象を愛して止まず、かつ、それに人生を賭けている人。そういう人は、楽しそうに笑いながら、すごい努力をしている。華やかな結果だけを見てうらやましいと思ってしまう人も、実は、すっごく努力している。

だた、本人にとって、それはうれしい努力なのだろう。私の知り合いも、「努力、努力、また努力なのよ。どうしてそこまで、頑張るのかって言われるのだけれどね、好きなことだから。」とかろやかに笑っていた。彼女には、小さなことから大きなことまで、奇跡は当たり前のように起きている。

北原氏は、「おもちゃ」に選ばれた人なのだと思う。なぜなら、おもちゃに全く興味のない私が、彼の本を読んだら、彼のおもちゃの博物館へ絶対に行きたいと思ったからだ。彼の本を読んで、同じように感じた人は、私だけではないと思う。だから、おもちゃたちは、これからも奇跡を起こして彼のもとへと集まってゆくのだろう。

いざ、おもちゃ博物館へ。

Rie

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シャンパーニュの土地

「フランス料理って、こんなに美味しいものだったんだ。」

菜を一口、口に入れた瞬間に、まるで新しい視界が開けるような感動を覚えた。シャンパーニュにあるレ・クレイエール。宿泊施設も伴うレストランで、その昔は貴族の館だったのだろうか。門をくぐると優雅な白亜のシャトーに出会う。

その日は晴天で、空が青かった。ダイニング・ルームの窓の外には、あふれる緑。

私たちがいただいたコースには、前菜、お魚料理、お肉料理と、それぞれにシャンパンが饗される。ほの暗い室内で、ソムリエさんがランプの炎にボトルをかざして澱の状態を見る。それは、ひとつの演出でもあり、私たちはひとときの物語を共有する。シャンパンの栓を抜くたびに、そのボトルを席まで持ってきてラベルを見せてくれる。ラベルを見せるだけの価値があるシャンパンということらしいが、私にはわからないので、ラベルのデザインや色形を鑑賞する。

このレストランには、日本人のシェフが一人いた。日本語で、メニューの説明をしてくださる。素材のことから、最近のフランスでのフランス料理の傾向まで。健康志向の高まりもあり、最近は、口当たりもカロリーの「軽いもの」が流行っているという。日本人のお客様は、パンとバターがおいしいと食べ過ぎて、メインディッシュが出る頃には、お腹がいっぱいになってしまう方がいる。くれぐれもパンの食べ過ぎに注意してくださいと言う。

そう聞いて、パン好きの私は、とても楽しみになった。実際、出てきたパンは、ついつい手が伸びてしまうおいしさだった。お魚料理に使われていたコクのあるホワイトソースは、カリフラワーをベースにしたもので、バターを一切使っていないと聞いて驚き感心する。

食事を終えて、庭に案内された。花壇に囲まれた中庭のパラソルの下。真っ白なテーブルに食後のコーヒーと小菓子がサーブされる。目の前の広い庭の奥は森になっている。ここで、また日本人のシェフの方とお話がはずむ。お料理が、本当に驚くほどおいしかったと伝えると、同じ味は日本では出せませんと言った。それは、素材のこともあるけれど、一番は環境だと言う。

「あの森、この庭、この建物、すばらしい雰囲気でしょう。こんな環境は、めったにありません。ここで調理し、そして食するからこそ、味わえるおいしさなのです。」と語るシェフは、まるで自分の大切な宝物の話をしているかのように目を輝かせ幸せそうだった。

このレ・クレイエールのある土地と建物は、その時代時代を代表するようなレストランとして、長年利用されてきた。ひょっとしたら、この環境が、美味しいものを作る人たちを自ら呼び寄せているのではないかしら、と思った。

シャンパーニュの空気は、甘い香りがする。この土地は意識をもって、シャンパンにとって最高の環境と最高の美味しさを引き出す人やものたちを呼び寄せているのかもしれない。

青い空の下、シャンパンクーラーに雪のように盛られた細かな氷。そこには、シャンパンたちが、うれしそうに胸を張って立っていた。

Rie

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しあわせは美味しい

「幸せって何なのか、わからなくなったら、美味しいものを食べてごらんなさい。」と友人が言ったことがある。そう、ものごとは案外シンプルなのだろう。その言葉は、いろいろな事を難しく考えすぎる傾向にある私には新鮮な響きとともに、賦に落ちた。

私はグルメでもなく、食べ物へのこだわりは少ないほうだと思う。それでも、私の周りには、美食家や美味しいものを捜すのが得意な人たちが多くいて、あちらこちらへと連れて行ってもらえるのは、ありがたい。

美食に関しては無頓着な私にも、人生観が変わるほどの「おいしさ」に感動したことがある。

ひとつは、フランスのシャンパーニュ地方にある「レ クレイエール」を訪れたときのこと。

フルコースのフランス料理。最初のアミューズを一口、口に入れた瞬間、「フランス料理って、こんなにおいしいものだったのか。」と驚いた。それまでも、かなりいいといわれるレストランでフランス料理を食べたことはあって、おいしいと思ったことはあるけれど、驚くほどではなかった。前菜も、メインディッシュも、その繊細な味付けと料理全体のかろやかさは新鮮だった。優雅で体にやさしく、しつこくないのに香りが残る。私のフランス料理に対するイメージが、一口で変わった体験だった。

もうひとつは、農家を営む親戚の家でのこと。

私は、無理をお願いして、田植えに初挑戦させてもらったことがある。

朝早くから田んぼに出て、慣れない手つきで田植えをする。私なりに、一生懸命やるので、けっこう体力を使う。暑い日があったり、寒い日があったり、肩が凝ったり。

かなり大変だけれど、最高に楽しい時間のことを思い出すと、楽しくなってくる。10時と3時におやつの時間があるのだ。おやつは、よくスーパーで見かける袋菓子だったり、缶ジュースだったり。普段だったら、あまりおいしくなさそうだと見向きもしなかったようなものなのに、田植えの合間に食べたおやつの、なんとおいしかったこと。そのおいしさを田植えの初日に体験したら、次の日も、おやつの時間が楽しみでたまらなくなった。

ほんとうに、信じられないほど、おいしかったのだ。あの「おいしさ」を体験するために、また田植えをしたいと思うくらいだ。

「おいしい」は、そのときの環境や、感じる側の私の状態に、かなり左右されるもののようだ。

これからも「おいしい」体験をいっぱいしたいと思う。おいしいと感じられるときは、いつもとっても「しあわせ」なのだから。

Rie

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